宗教戦争と諸州の対立
ヨーロッパの他の地域と同様、スイスでも改革運動がきっかけになって宗教戦争が起こりました。しかし、宗教改革はカトリック教会内部の刷新と領土の再編にもつながりました。
ヴォー地方の征服
スイスで最初に宗教改革への同意を表明したのはチューリヒ州です。そして、経済的に発達したドイツ語圏スイスのほとんどの都市がツヴィングリの思想を受け入れました。ゾロトゥルンとフリブールを除いて、全ての都市がプロテスタントに改宗しました。一方、ツヴィングリの教えはスイス中部の農村部ではあまり受け入れられませんでした。農村部の人々は都市民に較べて教養が少なく、ツヴィングリの論説になびくことはありませんでしたし、チューリヒという都会からやってくる全ての事柄を警戒していたからです。
盟約者団内の溝は深まりました。プロテスタント州はプロテスタント州同士で同盟を結び、カトリック州はスペイン・ハプスブルク家のフェルナンド・デ・アウストリアと同盟関係を結びました。
ツヴィングリの支配下にあったチューリヒは盟約者団全域にプロテスタンティズムを浸透させようとしましたが、他のプロテスタント諸州はカトリック諸州との間で戦争になることには反対でした。ツヴィングリは1529年、プロテスタント諸州にカトリック諸州への戦争を呼びかけましたが、プロテスタント諸州はこれを拒否しました。しかし、1531年には結局戦争となり、この第2次カッペル戦争でツヴィングリは命を落としました。
その後、いくつかの戦闘の末にカッペル協定が結ばれました。この協定により、プロテスタント同盟は解散され、カトリックとプロテスタントは互いに相手の信仰を尊重することを約束しました。
初期の宗教改革は、ベルンが領土を西方に拡大した時期とも重なります。ベルンは、ヴォー地方の一部を支配していたサヴォイア家の弱体化につけ込んだのです。
当時、ジュネーヴの住民は、サヴォイア家が支持するカトリック司教との間で対立関係にありました。つまり、サヴォイア家はベルンとジュネーヴにとって共通の敵だったわけです。ベルンとジュネーヴは1526年に同盟を結びました。
弱体化したサヴォイア家がフランス王家によって侵略されるのを恐れて、ベルンは1536年に侵攻を開始し、ヴォー地方のほかに、現在フランス領となっているシャブレーとジェックスを征服しました。そして、フリブール州とヴァレー州の支持を取り付けたベルンは、その波に乗ってジュネーヴを侵略しました。
ジュネーヴは独立を維持することが認められましたが、ベルンとの間でジュネーヴと同様の同盟関係を結んでいたローザンヌとヴォー地方はまとめて盟約者団に統合されました。
ベルンはヴォー地方の征服後、すぐに改革派信仰を導入しました。ローザンヌとジュネーヴはフランス語圏におけるプロテスタンティズムの中心地となりました。ベルンが1536年にヴォー地方を征服したことにより、サヴォイア公国から独立しようとしていたジュネーヴとの距離が縮まりました。しかし、ジュネーヴが将来盟約者団に加盟するために必要な信仰上の素地が作られたのは、ツヴィングリの後継者であったハインリヒ・ブリンガーHeinrich Bullingerが1548年に、ライバルであったカルヴァンの教義を受け入れたことにあります。
カトリックへの回帰と対抗宗教改革
宗教改革の波は、盟約者団の中でも勢力が強く人口の多い、数多くの地域に急速に押し寄せましたが、カトリック州は力を合わせてこれに対抗しました。
カトリック教会内部でも新たな進展がありました。それまで司教の任務とされていた財政・司法上の事柄を世俗の当局が行うことが認められ、時には司祭の任命も任されました。
宗教改革の例に倣い、カトリック教徒もイエズス会が運営する学校を各地に作りました。
カルロ・ボッロメーオCarlo Borromeo(1538-1584年)はカトリック教会の新生に大いに貢献しました。1579年にミラノにヘルヴェティア学院(Collegium Helveticum)を設立し、スイス人聖職者の養成に努めました。1610年に列聖され、スイス・カトリック教会の守護聖人として崇められました。
カトリック教徒もプロテスタント教徒と同じく、いくつかの地方を征服しました。カッペル戦争(1531年)の後、共通代官制の敷かれていた地域を掌中に収めました。ベルンから1567年にシャブレーとジェックスを返還されたサヴォイア公国は、プロテスタンティズムが支配的であったこれらの地域でカトリック教会を擁護しました。また、ヴァレー州はカトリック諸州の影響の下で徐々にカトリック信仰へと回帰していきました。
カトリック信仰回帰に向けた強い圧力を受けつつ、プロテスタンティズムを維持した地域もあります。ザンクト・ガレン修道院の所属でありながら、プロテスタント信仰を守り続けたトッゲンブルクはその一例です。また、信仰を自由に選べる州もありました。グラールスにはカトリック教徒もいれば、新教徒もいました。他方、アッペンツェル州では両者の共存が困難となり、1597年にカトリックのインナーローデンとプロテスタントのアウサーローデンに分割されました。